北緯1度通信

シンガポール在住の日本人です。日々の雑感、趣味の話など思いつくまま書いてみます。

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唐沢俊一のマンガ論検証(6)UA!ライブラリー・6「呪いをあなたに」

唐沢俊一のマンガ論検証六回目です。UA!ライブラリー・6「呪いをあなたに」は、奥付によると2000年8月に前作同様"日本貸本漫画保存会"により発行されています。この月は、UA!ライブラリー・5「悲しい星の子」も同時復刻されています。前々作とのブランクは2年3ヶ月です。商売になった?御同慶の至り、といいたいところですが法的にクリアなんでしょうか。通販の申込先は、前回同様鹿野景子先生の個人住所になっています。目次によると、『呪いをあなたに』、『ドケチ!』の2作品が収録されています。唐沢俊一の解説は76ページから80ページ(の一部)まで上下2段組で収録されています。申し分の無い分量でしょう。では。

本書76ページから80ページまで。原文縦書き。強調引用者。


好美作品にハマるということ

解説・唐沢俊一

蚊ジャム。
この『呪いをあなたに』の魅力は蚊ジャムというそのアイデアにつきる。
だが、その前に言っておかねばならぬことは多い。
よく読むと、この作品はかなり重厚な恐怖をテーマにしていることがわかる。主人公だと最初に思っていた三人組の女の子の話が、いきなり足のない少女とその親の葛藤の話になり、どうつながっていくのか、と思うと、実は三人は少女の作り出した(ママ)箱庭の中の虚構現実の中に取り込まれてしまっていることがわかる。
三人の少女たちと、足のない少女マキの関係は一切不明だが、それだけに、マキのゆがんでしまった精神が、何の罪も関連も無い三人を箱庭の中に閉じ込めてしまった、と考えると、なまじの因果因縁のあるストーリィよりも、そちらの方がずっと怖い。恐怖は常に不条理で自分たちの身にふりかかってくるのだ。
それまで、さまざまな因縁ばなし的ホラーを描いてきた好美のぼる作品の中で、この作品は、そういう意味で珍しいモダン・ホラーに属するのだ。
だが、好美先生の過密スケジュールとそれをものともせぬ速筆は、その斬新なテーマを見事に”わけのわからない”話に昇華する。
他の作家だと、ストーリィのわけがわからなくなるのは欠陥だったり、失敗だったりするのだが、好美のぼるワールドに限っては、それは完全なる好美作品へ向けての昇華なのだ。
特にこの作品、中盤の、三人の少女たちの、蚊、テント虫(作中表記に準拠する)、ゴキブリに対する異様な執着の仕方はどうか。中でも、妙てけれんな形のメガネをかけた少女ルミの、
「蚊がきらいだ、どんな虫より蚊がきらいだ、蚊がいたら気ちがいのようになって殺す」
という、わけのわからない性格設定の迫力はどうか。単なる蚊フォビアではない。きらいなのではなく、蚊を殺すことが楽しくて楽しくて、
「蚊を殺す道具なら何でも持って」
いるのである。この、極端な性格を徹底して極端化して描く好美のぼるの作風の異常さは、まさにこのような異常なキャラクターを描くとき、最も光り輝くのである。それがどれほど作品のストーリィ進行を混乱させようと、委細構わぬのが好美作品である。まさにこの作品、そういう因果的な設定を途中ではさむことによって(わけのわからない幽霊だか魔物だかを出すことによって)、三人の少女とマキの関係性が薄くなるのだが、しかしそんなことをかまう好美のぼるは好美のぼるではないのだ。
……だが、ここまでなら、まだそういう作家はいないわけではない。好美作品における発想の飛躍は、さらにそんな個人の嗜好をツキ抜けた、何やら異星人の思考パターンを見ているような気にさせるのである。このUAシリーズの読者ならば、『奇形児』ですでにそれをご覧になっている筈だ。サリドマイドで手足が縮む、というくらいなら、いいかげんな素材の理解として嘲笑の対象になるだけだろう。だが、その代償(?)に、今度は弟の手足が伸びる、というところまで描かれると、読んでいる方は、この作者には、何かわれわれと異なる次元で、描きたいものがあるのではないだろうか、と不安になってくる筈だ。
それがこの作品における、ジャムである。
蚊で作ったジャム。
人類史上、こういうアイデアを、何かの拍子に思いついた人はいるかもしれない。だが、思いついても、それを実際に描いてしまった人、他人にこのアイデアを披露しようと思った人は、好美のぼるが最初にして最後なのではないか、そう思うと、この作品を読むことが、何か凄まじい体験ではないか、とすら思えてきて、手がワナワナとふるえてくる。
思えば好美作品の魅力は、読んでいるこちらの小賢しい理解力などを軽く超越した、いっそシュールとすら言えるワケのわからなさにあったのだ。
『溶けた顔』におけるキャラクターの出し入れのいいかげんさ。『夜光虫少女』における結末の謎解きのトバし方。『耳売り少女』におけるラストの収斂のすさまじさ。
いずれも、こちらの、ストーリィを理解しよう、そこに作者の意図を見ようという努力に対し、ハナもかけないワケワカラナさに満ち満ちている。
普通の読者、何やらマンガに高尚な意味を求めようとか、芸術性をそこに見ようとかする陳腐な読み方をしている人間なら、そこで好美作品を三流と決めつけて、放擲してしまうことであろう。まあ、そっちの方が一般的(平凡ともいう)なパターンだが。
だが、そこで、その無茶苦茶な展開に、とにかくついて行こう、と決心したとする。単なるつまらぬ下手クソマンガ、として打ち捨てられない、そんな小手先の技術を超越した何か言い表せないチカラを好美マンガに認め、
「この作家はどうも、まっとうに読んでいたのではダメらしい」
と気がつくとき。
それが、好美マンガにハマる第一歩だ。
数限りない好美作品を、理性でとらえようなどというさかしらな考えを捨て、とにかく読む。ひたすら読む。自分が好美のぼるを読んでいるのではない、好美のぼるが自分を読んでいるのだ、と感じるようになるまで、我を滅し、全身全霊を好美作品の中に溶け込ませ、渾然一体となるまで読みふける。
するとそこに、豁然として全く新しい好美ワールドが開かれるのを感じることだろう。好美作品の持つ、前後のつながりのなさ、ツジツマの合わなさ、描写のおそまつさ、などという、それまで負の要因だったものが、一度に反転し、まさに好美作品ならでは(ママ)味わえない、唯一無二の魅力となってこちらを陶然とさせてくれるのである。
この陶酔感は、SMのそれに似ているかも知れない。苦痛に耐え、その痛みを超越した者のみが、脳内麻薬の分泌を受け、たとえようもない快楽の世界にハマりこむことが出来る。
理性だとか、このマンガを評論してやろうだとかいう、小賢しいプライドから一切解放された先に、ひたすらマンガの世界に浸り、周囲も自己も忘却してその世界に遊ぶという、幼な子(ママ)の頃にもどったマンガの読み方に戻れるのである。
思えば、昔、本当にマンガを楽しんで読んでたころ、われわれはそういう風にしてマンガの中に入っていっていなかったか。ご飯ですよと呼ぶ母親の声も忘れ、マンガの中に没頭して、その世界と完全に融合していなかったか。そしてそれこそ、マンガ読みの至福の時間ではなかったか。
われわれは知恵を得た代わりに、多くのものを失った。そのひとつが、無我の境地でマンガを楽しむ、その能力だ。
『エヴァンゲリオン』などのアニメが現れたとき、そのようなハマり方を表明するオタクたちが数多く現れた。しかし、彼らのハマり方は、本当に純粋だったか?その後彼らは言を尽くし、論理を振りかざして、自分たちの作品へのハマり具合を正当化しようとし始めた。
真にハマる、といのは、そんな論理の正当性を必要とするものではない。むしろ、論理に合わない、正当性を持たない、はっきり言えばどうしようもないものに、盲目的に愛を表明するのがハマる、という行為ではないか。
現代は、マンガというものの数が増えすぎ、人々がマンガに対する目を肥やしすぎ、評論家的な読み方しか出来なくなってしまった不幸な時代である。それだから、小手先の技術でしかものごとを表現できない、チマチマしたマンガが氾濫することになるのである。
そのようなものを超越し、技術やテーマ性の束縛を越え、刹那的なカルト表現のみで構成されている、そんな好美作品がたまらない魅力を持ったものに見える。これは、時代の欲求ではないかとおもうのである。
くいつきにくいかもしれない。受け入れるのに抵抗があるかも知れない。しかし、一旦全てを受け入れたとき、あなたは好美作品において、全ての束縛から解放された、本当にマンガを読んでいる自分を発見するだろう。
好美マンガは一種の癒しでもあるのだ。


うーむ、どこらか突っ込んで良いやら。とりあえずは、ひらがな表記の癖が独特で入力が大変だった、と。辞書が馬鹿になりそうだ。

"普通の読者、何やらマンガに高尚な意味を求めようとか、芸術性をそこに見ようとかする陳腐な読み方をしている人間"

それは普通の読者じゃない。あんたの脳内の仮想敵でしょう。

"われわれは知恵を得た代わりに、多くのものを失った。そのひとつが、無我の境地でマンガを楽しむ、その能力だ。"

またすごいキリスト教的な大風呂敷を。無我の境地でマンガを楽しむのは能力か?

"『エヴァンゲリオン』などのアニメが現れたとき、"、"彼らのハマり方は、本当に純粋だったか?"

こんな同人誌で、SMがどうのと小理屈をこねている人間に言われたくないよ。

"人々がマンガに対する目を肥やしすぎ、評論家的な読み方しか出来なくなってしまった不幸な時代である。"

おや、前回の"神聖少女お涙帝国"では"娯楽をふんだんに与えられ、目の肥えた少女たちは、悲劇を純粋に実体験と切り離し、お話として楽しむことを覚えたのである。"と書いていたぞ。

マンガに対する目が肥えたら評論家的な読み方しかできないの、それとも純粋に楽しめるの、どっちなの。

"小手先の技術でしかものごとを表現できない、チマチマしたマンガが氾濫することになるのである。"

因果関係をはっきりさせようじゃなイカ(笑)。

(1)マンガが増えすぎた->(2)読者の目が肥えた->(3)評論家的な読み方しか出来なくなった->(4)小手先の技術でしか物事を表現できないチマチマしたマンガが氾濫した

仮に、(1)->(2)を認めても、(2)と(3)および(3)と(4)の間には何の関係も無い。たくさんマンガを読んだところで読み方が変わる訳もないし、仮に評論家的な読み方しか出来なくなった古参のファンが増えたとして、それがどうフィードバックされると(4)になるの。主張したいなら実例をだしなさい。マンガ論としてお粗末過ぎる。

(1')ある個人がマンガを読みすぎて目が肥えた->(2')なので純粋に楽しめなくなり評論家的にしか読めなくなった

言えるとしたらこんなものでしょう。これって自己紹介ですか?

私、この程度でヨカンベー的いい加減さにかなり頭にきてます。

次回はUA!ライブラリー・7「早く立派なバレリーナ」を取り上げます。
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