北緯1度通信

シンガポール在住の日本人です。日々の雑感、趣味の話など思いつくまま書いてみます。

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唐沢俊一のマンガ論検証(15)UA!ライブラリー・15『真冬のソナタ』

UA!ライブラリ・15『真冬のソナタ』は奥付によると2004年12月30日に発行されています。奥付には「著者 北沢雪夫」ときちんと表記されています。収録作品は,「美しき君の瞳」、「十七才の日記帳」、「ひとりぼっちの青春」、「片目の仔猫」の4本で、すべて北沢雪夫作です。唐沢の解説は76ページから78ページまでの3ページです。では。

本書76ページから78ページまで。原文縦書き。強調引用者。
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”貧しさ”の価値

唐沢俊一

この作品は,発表当時にはあまり価値のない作品だったのではないか。そんな気がする。いや、気がするとかいうレベルではないか。今でも,いわゆるただのマンガと思ってこの作品を読めば,単なる凡作,この時代にいく百となく発表されて消えていった作品のうちの一つに過ぎないし,現に消えていったわけだし、われわれのような物好きが復刻しようという気を起こさなければ,そのまま誰の脳裏からも消え失せてしまったであろう作品だ。通俗な男女の出会いとメロドラマ,お涙,そして別れ,または安直なハッピーエンド。内容はまあ、それくらいで、そこに描かれた他の要素は,発表当時,つまり、一九六〇年代においては,どこにでもあるありふれた光景であり,会話であり,風俗であり,なにかとり立てて指摘したり騒いだりするようなものは何ひとつなかった。
しかし、発表から(たぶん)四十年近くたった今,この作品には凄まじい希少価値が生じている。それは、他でもない,ついさっき書いた”一九六〇年代のありふれた光景”、これである。これが現在の目で見て,極めて貴重なものに変質を遂げたのである。この作品に描かれた六十年代の風景,また六十年代風の人の生活,心理。中でも,貧しさと,愚かなまでにひたむきな愛情。これは、全てのドラマの基本となっている要素であり,そして、基本要素でありながら、二十一世紀の現在,ほとんど失われかけようとしている(ママ)要素なのである。
これを指摘した人がいるかいないか知らないが,リアリズムという表現形式は、貧しさを基本として出現した。貴族の豪華な生活を,いかに迫真的に描いても,それはリアリズムとはならない。リアリズムは,貧しさを克明に追った作品に冠せられた称号であった。なぜかというと、人は,映画や演劇や,そしてマンガに,夢を,ロマンを求めてきたからであり,ロマンとは,現実から足を離して夢の世界へと浮遊する感覚を称していう言葉であるからだ。ヒチコックがいみじくも言ったように、毎日の皿洗い,毎日の育児に疲れ果てた母親が,つかの間の娯楽を求めて映画館に行き,そこでスクリーンに映し出されるものが、毎日の皿洗い,毎日の育児に疲れ果てた母親では,映画とはつまるところ、ものの役には立たないものになってしまうのである。しかしながら、映像というものは,その根元にリアリズムを欲求する部分を持つ。貧しさをきちんと貧しさとして描こうという芸術的欲求は、『自転車泥棒』などのネオ・レアリスモ映画を生んだ。それは、イタリアがこの映画を生んだ一九四八年頃,敗戦国としての悲惨な貧しさに満ちあふれていた国だったからこそ生みだされた芸術様式であった。
不思議なことに,人間というのは,豊かになった生活に,リアリズム(現実感覚)を持てない生き物であるらしいのである。
この、北沢雪夫作品は,ストーリィ的にはどれもリアリズムとはかけ離れたものである。しかし、そのストーリィの根元にあるのは、貧しさである。その貧しさは,社会的にはかなりの下等な位置にいた貸本マンガ家であった作者の実感で描かれたものであろう。フィクショナル性(ママ)と,リアリズムが,同居しているフシギな空間が、それ故に、そこには漂っているのである。
そして、純愛。純愛が豊かさからは生まれ得ないものである、という点については残念ながらここで考察する紙幅がないが、とにかく、戦後六十年を迎えようとする日本社会が、そして日本製のドラマが失ってしまった、ドラマというものの原点的な要素がここにはあり、それはまた、作者の技量が時代を超える要素を持った優れたものではなかったが故に,ダイレクトに表現されている。発表後四十年近くにして,初めて,この作品は,時の巡りに出会い(ママ),読まれるべき価値のある作品に成熟した。喜ぶべきであろうと思えるのである。

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不統一は十と〇だけ。ただし、例によってひらがなを多用するので入力が大変でした。

おかしな文章は、以下の通り。>は修正案。

ほとんど失われかけようとしている

かける、と、ようとしている、は同義。こんな言い回しはない。

>失われかけている、あるいは、失われようとしている。

フィクショナル性

"虚構の"性。形容詞+'性'。文法の間違い。かなり重大な間違いだと思うのだが。

>虚構性

時の巡りに出会い

巡りに出会う,と書いて変だと思わないのか。巡り会い,を高級に言い換えたつもりだろうか。

>時が巡り

内容ですが、最初のパラグラフだけで十分だったと思います。実際そういうマンガですから。しかし、復刻した意味を無理矢理見いだそうとして訳の分からない文章を付け足しています。

貧しさと,愚かなまでにひたむきな愛情。これは、全てのドラマの基本となっている要素、(略)二十一世紀の現在,ほとんど失われかけようとしている(ママ)要素

全てのドラマの基本要素が失われかけよう(ママ)としているなら、ドラマが消滅しかかっている,ということか。そこまでは書けないから書いていない。なら、貧しさはドラマの基本要素じゃないのである。

これを指摘した人がいるかいないか知らないが(略)敗戦国としての悲惨な貧しさに満ちあふれていた国だったからこそ生みだされた芸術様式であった。

貧しさと、芸術でいうリアリズム、つまり写実主義は無関係。このパラグラフはまるまる口から出任せといっていい。

リアリズムはここ,ロマン主義はここ、ネオ・リアリスモはここここを参照してみました。

不思議なことに,人間というのは,豊かになった生活に,リアリズム(現実感覚)を持てない生き物であるらしいのである。

突飛なことを書き出したから、例えば,と例を挙げるのかと思ったら,それ故に,北沢雪夫は貧しさを実感していた下等な貸本マンガ家なので,作品にフィクショナル性(笑)とリアリズムが同居することになった、と書く。説明になってないし、無礼な奴だ。また、リアリズムという言葉を随分無神経に使うものだ。

純愛が豊かさからは生まれ得ないものである、という点については残念ながらここで考察する紙幅がないが

まず結論ありき。語るに落ちた。なぜ純愛なんて言い出したんだろう。

作者の技量が時代を超える要素を持った優れたものではなかったが故に,ダイレクトに表現されている

下手故にダイレクトに表現されているですか。UA!ライブラリー・10「 すごいけどへたな人」の解説では,"ヘタであるが故に描き得ない部分を、読者はその想像で補ったからである"と書いていたけど。

発表後四十年近くにして(略)喜ぶべきであろうと思えるのである。

世の中が豊かになったので読む価値がでた、というなら70年代後半辺りからだろう。

以上,どこを切っても出鱈目しか出てきません。その意味で希有な文章といえまいか(笑)。

UA!ライブラリは今の所これが最新刊です。発行から7年経っているので事実上最終刊と言っていいでしょう。

次回は,全册の奥付を考えてみます。

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フィクショナル性

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http://d.hatena.ne.jp/discussao/20100508

唐沢俊一検証blog
http://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/20101018

藤岡真blog
http://d.hatena.ne.jp/sfx76077/20101023

唐沢用語のようですね。
  • posted by discussao 
  • URL 
  • 2011.07/24 01:58分 
  • [Edit]

フィクショナル性 

>discussaoさん

コメントありがとうございました。なるほど、間違いではなく無知ということですね。
  • posted by altnk 
  • URL 
  • 2011.07/25 12:47分 

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